創作のための映画と読書まとめ

当ブログは「良き創作は良き鑑賞から」をモットーに、鑑賞した映画と本についてまとめておく目的で設立されました。同志よ集え!

橋本陽介『使える!「国語」の考え方』を読んだ感想

ちくま新書で、『国語教育の危機』に引き続き面白そうな国語についての本が出ていたので読んでみた。

 

 

国語教育における「小説の授業がなぜつまらないのか」という言及が目から鱗だった。

 

それは、心情中心主義と鑑賞中心主義に終始しているからだという。

 

筆者は物語論も書いている人で、教科書の定番である『羅生門』と『舞姫』を批判的に分析している。舞姫の主人公はどうしようもない男だ、とか。

 

こういった自由な読み方が許されず、規範化した作品に賞賛の向きでしか教えないから、つまらないのだという。

 

「文学が果たす役割は、特定の見方の押しつけではなく、むしろそれを揺るがし、拡大してくことではないだろうか」と筆者は言う。

 

そうだとすれば、教科書に小説を載せること自体が難しいことのように思われる。教科書は、ある程度の押しつけを伴うものであるからだ。

 

「話す・聞く」の対話的な活動を増やしたいなら、現状では難しいだろうというのにも賛成できる。異なった見方が複数提示されないと、議論にならない。しかし、異なった見方が出るような教育を受けていない現状、それは期待できない。

 

ひとつ違和感を覚えたのは、「小説は曖昧な方が面白い」という点。その点において、『羅生門』には明快すぎる主題があり、深さが足りないと批判する。

 

私は、ひとつの主題を伝える寓話的小説が、村上春樹のような多義的解釈が可能な小説に劣っているとは思わない。『イワンの馬鹿』や『動物農場』などは、主題はシンプルだけれど、面白いと思う。

 

『羅生門』におけるエゴイズムもそうだが、明快な主題であっても、それ自体が難解かつ深淵なものを持っている場合、その作品に深みが生まれるのではないか。

 

国語ができる人ほど、固定した読み方を押しつけるのを嫌うという意見もあった。しかし、そもそも、興味がない作品を読まされるという時点で、ある程度離反者が出るのは当然なのではないか。固定化した見方の押しつけであっても、自分の興味に関わる作品なら、面白いと思うのではないか。そういった視点が欠けてないか。

 

一方的な見方を押し付けられて、違和感を覚えるなら、そこから自主的な学びが生まれる可能性もある。そのためには、教師があくまでひとつの読み方を教えているに過ぎないことを強調しなければならないだろう。もちろん、生徒にそこまで求めるのかどうかという余地は残る。

 

小説を教えるという行為の難しさについて考えさせられた。同時代評や先行研究を調べたうえで、皆が各々の解釈について議論するという形でしか、小説を学ぶということができないのではないか。これもまた、求めすぎているだろう。どうも、教育論は理想が高すぎて、現実が追い付いていないように見える。

 

海外文学も取り入れて、様々な作品に触れさせるという案は賛成できる。どうも日本の小説は、心情を追うものが多くて、そればかりでは、小説はつまらないと思う生徒が多くなっても仕方がないと思う。刺激が足りない。もっと多種多様な作品を載せて、興味関心を広げる工夫が必要だ。

 

他に、「論理的」とはどういうことかという解説も面白かった。

 

旧情報から新情報へ記述するとか。普段、あんまり意識していない部分である。

 

あとは、リテラシーについてなど。情報過多の現代において、情報が正しいかどうか見抜くの力が、新しい国語の指導要領でも求められている。

 

大学では、論文を書くために一次情報を調べるように指導される。高校までにおいても、そのような教育を施す必要がある。しかし、受験がなにより優先するため、難しい。

 

本書は、全体的に文例が豊富で、歴史の書き換えの例で『進撃の巨人』が出ていたりするのが、さすが物語研究の人だなと思った。

 

国語の力について、多方面に論じられていて、エキサイティングでした。その分、記事にまとめるのが大変で、後半雑になってます。申し訳ないです。色々勉強になるし、考えさせられる本です。興味を持たれた方は、ぜひ読んでみてください。面白いです。

 

他の著作にも興味がわいたので、『物語論 基礎と応用』を買おうと思います。