最近買った本の紹介と記録その2|『一日一文 英知のことば』『日本の同時代小説』『夏への扉』
前回紹介した分、まだ読み切っておりません。
例の如く浮気して、鶴見俊輔『文章心得帖』を読み返していました。教え自体はシンプルですが奥深く、為になるものだと思いますので、また紹介したいです。
今回買ったものは、例の如くハヤカワ文庫と、岩波文庫と岩波新書です。岩波は安定感があっていいですね。食指が動きやすいのは、ちくま新書なんですけれども。
さて、記録は、本を買ったその日に残さないと具合が悪いでしょうから、ささっと、思いつくままに書いていきます。推敲も後回し。
①木田元・編『一日一文 英知のことば』岩波文庫
哲学に興味はあるけれど、深いところまで突っ込む器量のない私は、哲学の名のつく本の中でも、なんとか読めそうな本を探しては購入していた時期がありました。そんな中で、木田元という哲学者は、比較的門戸を開いてくれている人だという認識がありました。
まあ、『反哲学入門』も『哲学散歩』も、途中で読むのやめているんですけれどね。投げたわけではありません、休憩です。勘違いしないでくださいね。
この本は、忙しい現代人が、「せめて一日に数行でもいい、心を洗われるような文章なり詩歌なりにふれて、豊かな気持で生きてもらいたい」(前書きより引用)という要請に応えた形で編まれたそうです。
一日に一ページ、短い明文と出典、筆者の略歴が載っています。筆者のかぶりが(おそらく)ないので、全部で366人を知ることができるわけですね。(旧約聖書は人ではないから、正確にはもう少し少ない)
哲学者のことばから小説の一節、中国の詩歌まで、幅広く採られています。
ちょっと難しいものもあって、解説なしではしんどい文章もある感じ。
どこに載ってるか分からなくなったんですが、書店でぱらぱらとめくっているときに、「女は女としてうまれてくるわけでなく、社会を生きる中で女になる。男と去勢者の間に」みたいな(うろ覚えです。また見つけたら書き直します)文章が刺さったので、購入しました。
「ボヘミアン・ラプソディ」をみたばかりというのと、構想中の小説の関係で、なにか示唆的なものを感じました。
私自身はノーマルで(こういう言い方もよくないかもしれない)、あまりジェンダーとかLGBTとかに興味が薄かったのですが、そうも言ってられない、双方から歩み寄っていく必要がある、と感じるようになっています。
366も紹介されていれば、購入のきっかけとなる「刺さる一文」が絶対にあるでしょうから、ズルいですね。
あと邪な購入理由として、さっと引用できる人にあこがれがあるからです。衒学的?という見方もできるでしょうけど、自分はカッコいいなあと思います。
②斎藤美奈子『日本の同時代小説』岩波新書
某哲学youtuberの方もおっしゃっていましたが、一口に〇〇学科を修めたからと言って、その全体に詳しくなるわけじゃないんですよね。
私の場合、文学部なのに古典は苦手だし、近代も怪しい。というか、一人の小説の一作品しか論文ではあつかっていないから、全体についてはあやふやな部分が多い。それが悩みでした。
だから、こういった通史みたいなものは反射的に手が伸びます。ちゃんと安部公房も(少しだけ)載ってましたし。
気になったのはケータイ小説への言及です。私もその時代を生きたものとして、現在から振り返ったときどういった位置づけにされているのか気になったので、買いました。
中学の時に書いたことあるんですよ、ケータイ小説。もうアカウントがどこかにいったので、確認しようがありません。見てみたい気持ちもどこかにありますが、圧倒的に「見たくない、怖い」が勝ちますね。
③ロバート・A・ハインライン『夏への扉』ハヤカワ文庫
先日の『エンタテインメントの作り方』にも紹介されているし、その他随所で目にするので、満を持して買いました。
恋愛モノって書いてますけど、私、恋愛もの苦手なんですよ。理由はお察しください。
最近、それを克服するために『いま、会いにゆきます』も読んだし、大丈夫でしょう!
と、いうところで紹介と記録を終わります。
また、積読してしまいました。
【新書】貴志祐介『エンタテインメントの作り方』の感想|売れっ子作家による、作家になるための実戦的なアドバイス集
貴志祐介といえば、エンタテイメント小説を連続でヒットさせ続けている、超売れっ子作家である。
ヒット作は数知れず、いちいち上げるとキリがない。私が初めて読んだのは『クリムゾンの迷宮』。ゲーム的な設定は、漫画の方が多くて、小説だとライトノベルぐらいのもの。ところが、この作品はホラー小説としてそれを成し遂げている。是非、映画化してほしい作品です。
他に読んだものといえば、『ダークゾーン』『新世界より』『悪の教典』『雀蜂』『十三番目の人格 ISOLA』ぐらいかな。あんまりミステリは読んでない。『ISOLA』はぞっとするオチで、小説で怖いと思ったのはこれが唯一じゃないかなあ。あんまりホラー小説自体を読まないんだけど。『雀蜂』があんまりおもしろくなくて、そこからあんまり読まなくなった。
ゲーム的なエンタテイメントを書かせたら、一線級だと思っている。そんな作家の指南書なんだから、是非読まなくては、と思って買ったのが(挟まっていたレシートによると)2017年の10月10日。なんとも長い間寝かしていたものです。
「売れる小説はこう書く」なんて挑戦的なサブタイトルに反発したのか、単に忘れてしまっていただけなのか。もちろん、読むのを忘れていただけです。
◎
前置きはこの辺にして、内容に移ります。
この手の指南書でまず心配なのは、自分語りばかりのものになっていないかどうかですが、そうではないので安心しました。
もちろん、作者の体験は出てくるのですが、それは自分が苦労し、試行錯誤したこと、気を付けていることが語られているのであり、むしろ有益です。これだけのヒットを飛ばし続ける作家であっても、デビュー前は何度も新人賞に応募し、試行錯誤してきていることは、書く勇気につながるのではないでしょうか。
さらに、作者はこの指南書の類を読み漁ったこともあるという。これも、なんだか安心させられる。作家になる一握りの天才は、そういったものを見ないのかと思っていました。
「長編を書くには体力が必要だから、はじめは短編を書いてた」とか、「書く前は最高に面白いと思っていたのに、途中から段々とつまらなく思えてくる現象については、最初からあまり意識を高く持たないことが肝要だ」とか、すごい普通なんですよ。一般人の感覚。そこがありがたい。
つまり、貴志祐介も最初から書けたわけではなく、努力と試行錯誤の上に書けるようになった、ということです。
ただし、それは幼少期からの膨大なインプットに基づくものであることを理解しなければなりません。彼は小さいころから本をむさぼるように読んできたことが、物語る上での体力になっていると言うし、読みもしないのに作家になりたいという人に対し苦言を呈している。最近の作品、特に長編を読み通す体力がなくなってきている私には、耳が痛い話です。
いつも思うのは、成し遂げた人と言うのは、たいていの場合、幼少期からの積み重ねがある。それを聞く度に、ゲームばかりしてきた自分の過去が悔やまれてなりません。過ぎたものは仕方がないんですけどね。
構成としては、小説を書く上で、ひっかかるであろう「アイデア」「プロット」「キャラクター」「文章作法」「推敲」「技巧」について、章立てて説明しています。それぞれ、自身の作品を例示してくれているので、説得力があります。『天使の囀り』において、プロットが膨大になった話などがありました。さらに、筒井康隆など、他作品もたくさん紹介されているので、その辺は公平かな、と思います。
特に、「アイデア」の章が面白かったです。既存の組み合わせで生み出す方法はもちろん、「もし○○が××だったら?」を膨らませてアイデアにする方法が紹介されています。『新世界より』も、その発想法から生まれたとのこと。その突飛な発想を、どのように物語へ昇華するかが鬼門な気もしますが、そのあたりは、さすがに本人の力量と言ったところでしょうか。
あとは、こまめにメモをとることも、アイデアにおいては重要です。メモに関しては、『思考の整理学』にも同様のことが書いてありました。つぶさにメモし、寝かせるのが大事です。私も実践していて、無印良品のメモ帳がやっと一冊埋まりそうです。
「プロット」では、はじまりとクライマックス、結末の三点が決まればプロットは書ける、という情報が一番有益でした。あとは、ジャンルごとにいくつか決めておくべきこと(たとえば、ミステリにおけるトリック)があるということや、読者を飽きさせないための「推進力」を設定することなど。テーマについては、「最初に決める必要はない」と新説を提示しています。自然と決まるのがテーマであるから、先に決めてしまうとむしろ不具合があるとのこと。
「キャラクター」では、「アイデアはいいけどキャラに魅力がない」といわれる理由が書かれている。『悪の教典』の「ハスミン」がどうやって生み出されたかについても書かれていて、興味深い。
あとは、エンタイテイメントにおいて重視される「読みのテンポ」についてなど。このあたりは、「エンタテインメントの作り方」と題する本書でないと、なかなか指摘されていない部分なんじゃないか、と思います。
他にも、細かい部分まで色々記述があります。気になった方は、是非手に取ってみてください。
ライトノベルとはまた違う、エンタメというジャンルで書いてみたいなあという方は、一読して損はないかと思います。
どこかで見たことのあるアドバイスはもちろんありますが、何回も聞くということは、それだけ重要であることの裏返しであることに注意すべきでしょう。
結局、「たくさん読んでたくさん書くこと」が唯一の道らしいことが分かるが、それを踏まえて、どういった点に注意すべきか、実体験を基に書かれているので、納得できるものが多かったように思います。中にはわかりにくいものもありましたけれど、それは貴志流なんだろう、と思っておくのがいいのでしょう。例えば、キャラクターの声をイメージしろ、というのはピンとこなかったです。
ただ、こういった指南書の類の中で、ここにしか書いてなさそうな情報もいくつかあったので、総合的に見ればいい本だったと思います。
「アイデア」については、この辺と同じことも書いてあったりしました↓
最近買った本の紹介と記録|『revisions 時間SFアンソロジー』『NOVA 2019年春号』『最高の雑談術』
目次
- 前置き:積読対策にメモをとるぞ、という話
- 『revisions 時間SFアンソロジー』大森望・編 ハヤカワ文庫
- 『NOVA 2019年春号』大森望 責任編集 河出文庫
- 外山滋比古『最高の雑談術』扶桑社文庫
前置き:積読対策にメモをとるぞ、という話
積読という言葉がある。買う速度が読む速度を超えることで未読の本が累積していくことを指し、巷では「本の塔は存在するだけで精気を養う」というパワースポットのような効果がささやかれている。
私の場合、読み切る前に他の本をちょっとつまみ、また別のをつまみとしていしまうので、いわば「半読」の状態の本が積まれている。
そして、つまみ食いから戻ってきたころには、読んだところまで何が書いていたか忘れてしまい、結局ほったらかしにしてしまう。もう、長編は読み切るのが困難で、短編集ばかりを選んでいる。新書の類も、前までの流れが分からないと大変なのは、長編小説と変わらない。こうして中途半端に読まれた本は積みあがっていく。
完全に未読の本も多い。興味があって買ったのは間違いないが、そのとき、何に惹かれて買ったのかも、おぼろげになる。
それを防ぐためには、読んだところまでのメモ、何を思って購入したのかのメモを定期的にして、バックアップを作っておくのが良いのではないかと思い、書いてみることにした。
そんなことするぐらいなら一気に読んでしまった方が楽じゃん、と思われる方もいるかもしれない。まったくもってその通りだと思う。飽きてやめてしまうのが関の山だと思うけれど、まあ物は試しだから。
前置きが長くなりました。
『revisions 時間SFアンソロジー』大森望・編 ハヤカワ文庫
「時間」をテーマにしたSF作品が6作載ったアンソロジー。時間系SFは名作が多いと言われます。バタフライ・エフェクトとかシュタゲとか。「妙技」といわざるを得ない、巧みな伏線回収が可能なのがこのジャンルだと思います。
そういう意味で、『TIME』という映画にはすごくがっかりした思い出があります。巧い!とうならせてほしいという期待を持つから、自然とハードルが上がってしまうとも言える。TIMEは超えてこなかったなあ。
とりあえず『退屈の檻』を読みました。エンドレスエイトみたいな時間ループものなんですが、ループする時間がなんと10分だけ。時間の繰り返しがもたらす最大の問題はなにか?というアイデアで書かれた短編。時間系と短編は親和性が高いなあ、と思いました。火星人が出てくるあたりは古臭い。でも、面白かった。どうやらハードルを越えてきてくれそうである。他の編にも期待しています。
そういえば、『タイムトラベル 「時間」の歴史を物語る』も途中までだった。ずっとウェルズの『タイムマシン』の話をしているから、ちょっと飽きちゃったんですよねえ。
『NOVA 2019年春号』大森望 責任編集 河出文庫
こちらもSF短編集。じわじわとブームが来てるのかな? SFだからハヤカワだろうとおもって探したんだけれど、調べたら河出だった。
宮部みゆきなど、名だたる作家が名を連ねているので、書影が出たときから気になっていました。
新井素子『やおよろず神様承ります』と小川哲『七十人の翻訳者たち』を読みました。どっちも面白かったけど、とくに後者が好きです。聖書を題材とした歴史小説的でありながら、ちゃんとSFしている。たしかにあったかもしれないと思わせられる筆致に、ワクワクしました。前者は鬱憤のたまった主婦が変な宗教によって良いほうに向かう話なんですけど、あんまりSFらしくはなかった。ある意味で童話的。嫌いではない。
小川哲は『ゲームの王国』が話題になった作家で、気にはなっていましたが、『七十人の翻訳者たち』が面白かったので、またこちらも読んでみたいなあ。
赤野工作という作家の作品が一番オモロイと巷ではささやかれているので、期待しています。
外山滋比古『最高の雑談術』扶桑社文庫
乱談のセレンディピティという副題?がついています。前著の乱読のセレンディピティが結構ツボだったので、続編ということで買いました。
セレンディピティは偶然性というような意味合いで、ペニシリンの発見がまさにそれにあたるとのこと。関係ないと思っていたもの同士がたまたま結びつくところに発見があり、それを起こすためにはたくさん読むという行為が必要になる。
しかし、読むだけではセレンディピティが起こりにくいんじゃないか、と考え、出てきたのが乱談であるという。
「アイデアは既存の組み合わせ」ということを踏まえてこのブログを運営している私としては、見過ごすわけにはいかない内容だとおもうので、ぼちぼち読んでいきたいと思います。
参考↓
『ボヘミアン・ラプソディ』の感想と考察|「孤独」と戦った男に熱狂し、共感する
話題の映画を観てきました。
Queenの曲自体は(ジョジョ経由で)知っていましたし、好んで聴いてました。
ただし、歌詞の意味はよく知らず、ただメロディやリズム、フレディの透き通った声が好きだっただけです。深いところまでは知らなかった。
しかし、『ボヘミアン・ラプソディ』を観て、Queenを知り、フレディ・マーキュリーを知ってから、流れる曲を聴くと、また違った味わいがありました。
映画の中のフレディが、その生涯を通し、「孤独」と戦っていたことを知る。そして、曲もそれに関連しているものが多いことが分かります。
フレディは、インタビューの中で、「本当の友達はいない」と語っていました。劇中でも、同様の言葉がありました。
あれだけのファンに囲まれながらも、彼の心は満たされなかった。
ライブの中で、あれほどの一体感を得てなお、満たされない心がありました。
生まれや宗教、セクシュアリーにおいてマイノリティーであったことが、その孤独の大きな要因であったことは確かでしょう。しかし、それだけではないはずです。
なぜなら、「孤独」という問題は、マイノリティーだから発生するのではなく、私たち全員が当然に抱く問題だからです。
彼の孤独は、彼にしか分からない。当然です。こんな映画で分かった気になることも、失礼でしょう。
ですが、私たちは、究極的には、全員が「孤独」です。心を完全に通わせるということは不可能だからです。
どれだけ友達と楽しく遊び、言葉を交わそうとも、どこかに不信感があり、寂寞の砂漠が心のうちに存在している。
だから、「彼の孤独」は分からなくても、「私の孤独」を知ることはできる。そこから、「彼の孤独」に共感することができる。
人々はお互いに、本当の自分を知ってもらうことはできない。相互理解が完全になることはない。皆が等しく「孤独」であることを、フレディが教えてくれる。
そして、それでも「愛」を歌うフレディの曲に、皆が心を打たれる。
みんなが孤独なんだ、と知ることで、一体感を感じることができる。逆説的に、皆が孤独でなくなる。
誰しもが「孤独」であるからこそ、Queenの曲は刺さるんじゃないかなあ、と私は感じました。
もちろん、フレディの苦悩を見て「あれは俺だ!」と思って、完全に理解した気になって、最後のライブシーンで全てが好転し、昇華されたと思い込む見方も、アリ。
深く考えずとも、Queenの曲が名曲であることは、昔の私が知っています。
「誰も通ってない道を行く」姿に感動するのもアリ。実際、自分が病に侵されていようと、ファンの求めるフレディをパフォーマンスし続けた姿は、感動的です。
とにかく、これからは「孤独」を感じたときに、Queenが傍にいることを思い出せる。それだけで、見てよかったなあ、と思います。
『トップガン』の感想と考察|「挫折からの再出発」という王道と、ただカッコいいトム・クルーズ
トップガン(TOP GUN)は、1986年に放映された、トニー・スコット監督によるアクション映画である。
最近では、自衛隊初の女性パイロットが「あこがれ」として挙げたり、続編の制作が決定したことで話題になった。
「ハリウッドスター」トム・クルーズの出世作でもあり、名作であることは間違いない。
しかし、ストーリーの巧みさを研究する当ブログにおいては、いまいちの作品であると言わざるを得ない。
なぜなら、本作の魅力はトム・クルーズ演じるマーヴェリックがかっこよすぎることと、戦闘機によるアクションがすごいということにあるからだ。
≪目次≫
ストーリーの構成
トップガンのストーリーは、基本的な三幕構成である。
序:自信家主人公マーヴェリック
序盤は、主人公マーヴェリックが優れたパイロットであることが描写される。掟破りの飛行は、規律に厳しい軍隊では好まれるものではないが、その操縦の腕を買われ、飛行機乗りのエリートを育てる学校で「トップガン」を目指す。
マーヴェリックは鼻持ちならない自信家ではあるが、パートナーであるグースを家族同然と思っていたり、仲間思いの一面もある。
一方で、命令を無視するので、他の仲間からは敵視されている。
ライバルキャラから、「敵より危ない」と言われるが、もっともである。こういう話のライバルキャラは、鼻持ちならないやつが多いが、トップガンでは、むしろ主人公の方が悪い。
歌でヒロインである女性を口説くシーンなども、自信家としての描写といえるかもしれない。
破:パートナーの死
飛行訓練の練習中に、トラブルが起き、墜落してしまう事故が起きた。そのせいで、パートナーであるグースが死亡する。
事故と判断され、お咎めなしだったが、自責の念に囚われたマーヴェリックは、教官、パートナーの奥さん、ヒロイン、ライバルから慰められるも、思い悩む。卒業間近であるが、飛行機乗りをやめよう、と考える。
急:立ち直り、活躍する
教官との会話の中で、優れたパイロットであった父親の話を聞かされる。
それを聞いたマーヴェリックはパイロットとして生きることに決め、学校を卒業すると、すぐさま実戦に参加することになった。
ライバルを救い、敵機を次々と落とす大活躍をして、パートナーとの決別を果たす。
トム・クルーズがかっこいい
トム・クルーズが自信満々で、バイクを乗り回し、サングラスをかけたり外したりして、歌を歌ったり、ビーチバレーでマッチョを晒したりするのが、ただただカッコいい。
いや、歌を歌うシーンでは、頭に?マークが浮かんでいたので、あまりかっこいいとは思わなかった。歌って口説くって、カッコいい人じゃないとできないですよね。いや、カッコいいんだけども。
上記の通り、ストーリーは凡庸であるが、カッコいいトム・クルーズが見たければ、本作はうってつけである。
また、戦闘機によるアクションも評価ポイントらしいのだが、正直に言うと、どの飛行機がどの飛行機と戦っていて、どっちが勝ってるのか混乱する場面もあり、イマイチ入り込めなかった。
麻雀やスポーツ漫画でよくある、外野の解説でなんとか状況を理解する感じだった。
戦闘機によるアクションならば、『マクロス』や『紅の豚』の方が優れていると思うのは、私がアニメびいきなだけでしょうか。
どうしてもスピード感を演出できていないような、そんな気がします。
もちろん、本物での撮影というところに、迫力を感じるべきなのでしょう。なにせ、操縦していたスタントマンが事故死しているくらいですから。
まとめ
『死ぬまでに観たい映画1001本』によると、マーヴェリックの「マッチョだが本当は繊細という男は女性観客に受けた」とある。しかも、バーで歌うシーンが効果的だった、と。私にはギャグにしか見えなかったけれど、まあ面白いシーンではあると思います。
また、マーヴェリックの「マッチョだけど繊細」という、キャラクター造形として、ひとつの参考になると思います。
ストーリーに関しても、「挫折からの復活」という王道で、分かりやすく面白い部類ではあるでしょう。
ライバルキャラとは、最後仲直りして、互いを認め合う。ヒロインとも結ばれる。典型的なハッピーエンドで、そこはいいんですけれど、パートナーとの決別ということで、形見を海に投げるんですよね。わたしは、わざわざ捨てなくてもいいでしょうが、と思いました。「決別」を分かりやすく描写したかったのでしょうか。それにしても、ねえ。
歌のシーンといい、ツッコみどころに見えるんですが、文化の違いなんでしょうか。
↓参考文献
↓本ブログの目的
ミキータ・ブロットマン『刑務所の読書クラブ 教授が囚人たちと10の古典文学を読んだら』を読んだ感想
本書は、「オックスフォード大学卒の文学研究者・ミキータ教授が、刑務所で囚人たちと、古典作品を読む」という活動の記録で、ジャンルは当然、ノンフィクションです。
わたしは、タイトルが気になって、購入しました。「読書」と「囚人」という組み合わせが、すぐに『ショーシャンクの空に』を想起させたからです。名作ですよね。
本を読ませる相手は、ろくに教育を受けてこなかった、本を継続して読んでこなかった囚人たちです。教授が、どうやって難しい古典を読ませるのか、気になるところです。
取り上げた作品は
- ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』
- ハーマン・メルヴィル『書記バートルビー ウォール街の物語』
- チャールズ・ブコウスキー『くそったれ!少年時代』
- ウィリアム・バロウズ『ジャンキー』
- マルコム・ブラリー『オン・ザ・ヤード』
- シェイクスピア『マクベス』
- ロバート・ルイス・スティーヴンソン『ジキル博士とハイド氏』
- エドガー・アラン・ポー『黒猫』
- フランツ・カフカ『変身』
- ウラジミール・ナボコフ『ロリータ』
となっています。
私にとって、全体的に、なじみのない作品が多いです。ちゃんと読んだことのある作品は『変身』くらいのものです。しかし、軽い紹介も入ってますし、作品を知らなくても読むうえで支障にはなりません。
概要はこれくらいにして、この作品のおもしろいとおもったところを、いくつか紹介したいと思います。
序盤は、手探り状態のドキドキハラハラ
最初の2作品は難解で、終わり方もすきっりしない、非常に「文学的作品」だと紹介されています。
先述の通り、彼らは、本に親しんできたわけでもなく、読むという行為自体が大変な人ばかりです。指で文字を追い、ゆっくりとしか読めません。
教授は、しょっぱなから、カタルシスの薄い、難しい本を持ってきたわけです。大学と同じ感覚でセレクトしたのかもしれません。当然と言えば当然なのですが、うまくいきません。
囚人たちの感想も、ほとんどが「つまらなかった」「よくわからなかった」というものです。
それに対して、本を選んだ教授は、「がっかりした」とか、「イライラした」とか、明け透けな感情を吐露しています。この教授は、全体を通して素直な心情を吐露していて、必要以上に人間的な印象を受けます。
教授が、刑務所という極めて異質な空間に不慣れであるというところからも、序盤はギクシャクした印象があり、これからどうなってしまうのだろうというハラハラがあります。
一方で、囚人たちの意見は割と真っ当であることに驚かされます。不良漫画でありがちな、荒廃した環境ともまた違うわけです。
囚人たちは、先生の言った意見にそのまま賛成するわけでもなく、芯を持った人たちです。これからどう展開していくのか、素直な興味を持って読み進めることができました。
教授や、それぞれの人物についての描写
全編を通して、本の解説よりも、囚人たち登場人物が、どんな背景を持っているかにスペースが割かれています。メンバーの囚人は9人いるのですが、麻薬の常習者だったり、怒りの感情を抑えられなかったり、案外思慮深かったりします。
彼らは、まじめな態度で受けているわけではありません。居眠りもします。そのあたりは、囚人のイメージ通りと言えます。
そして、学のない人がほとんどですから、自らの体験談や、知っている人を作品に重ね合わせて語ることが多く、そこからも人柄をうかがい知ることができます。
一方で、彼らは、思った以上に純粋に物事を見ていたり、自分は被害者であるという思いが強かったりします。
被害者意識については、彼らのおかれた環境からすれば当然の感情です。『変身』の回では、不条理な世界に立たされたグレゴール・ザムザに強い共感を寄せています。
考えてみれば、我々は一様に、この世界の不条理に共感できるはずなのですが、その感情が一段と強いという彼らの属性については、色々と考えさせられました。
彼らの住む刑務所についての描写は、囚人の口から、または教授の受ける待遇から伺い知れます。
教授は女性なので、刑務所内ではあまり肌を露出しない服にするように言われるわけですが、その判定が理不尽に厳しいものだ、と教授は思っています。しかし、それは刑務官の性格が悪いということではなく、刑務所という空間がそうさせているのだということに気づきます。
それほどに、刑務所とは異様な空間なのです。そこで何十年も暮らしてきた囚人たちは、独特な感性を持っていると言えるでしょう。『ロリータ』の回では、とにかく、被害者に対して共感する態度が、教授のそれと対立しているのが印象深いです。
視点である教授も、なかなか曲者で、難しい本を選んでおいてイライラしたり、怒ったりと、我が強いというか。それでいて、自分をちゃんと客観視しているところが、面白いです。
単なる活動の紹介ではない、ということ
本書の一番の盛り上がりは、本について語り合うシーンではない、と私は思いました。
この終章によって、本作はただの活動記録ではなく、ひとつの作品へと昇華されています。
エピローグともいえる「さいごに」の章で、教授は仮釈放された二人の囚人に出会います。
その出会いは、いままでの過程をすべて打ち消してしまうような、カフカ的不条理を我々に与え、この本は終わりを迎えます。
なんだか、ぞっとすると同時に納得してしまう、そんな終わり方でした。
こう感じるのは私だけでしょうか。ぜひ感想をお待ちしております。
【創作】物語るためのアイデア出しの方法を紹介する本の紹介
「物語る」=「創作する」という意味で使っています。小説に限らず、漫画でも、脚本でも、自分の考えた物語を形にすることです。
なぜ人は物語りたくなるのか? それは、自身が物語に魅入られたからに違いありません。
野球少年がプロ野球選手にあこがれるように、素晴らしい物語に触れて、自分もこんな物語を紡いでみたい、と思うことは自然で、当たり前のことです。
しかし、いざ自分で書いてみようとすると、なかなか書けない。
原因は色々とあるでしょう。
その中でも、まず最初に取り掛かるべきは、「作品に関する知識」不足の解消だと言えます。道具がなければ野球はできませんし、具材がなければ料理はできないのと同じで、物語るための材料がなければ、なにも書けません。
では、ただ漠然と、とにかく作品に触れていればいいかというと、そうではありません。
もちろん、暴飲暴食、濫読もダメではないのですが、良く味わって、分析をして物語を吸収する方が、物語るうえでは為になります。
それでは、「なぜ物語るためにはインプットが必要なのか?」「どういう方法でインプットすればいいのか?」を、見ていきたいと思います。
インプットなんか、しなくても書ける?
「私はそんなことしなくても書ける」という人がいらっしゃるかもしれません。
たしかに、そういう方もいるでしょう。『リアル鬼ごっこ』などで有名な山田悠介も、自分が作品を作るまで、本なんか読んだことがなかったと言っているらしいです。
ただ、それよりも圧倒的に、「いいから作品に触れろ」と言ってる人の方が多いです。
小林秀雄は、「作家志願者への助言」の中で「常に一流の作品に触れろ」ということを言っています。「良いものに触れることで悪いものが分かるようになる」とも。
現状でも書けないことはないでしょう。しかし、自作をよりよいものにしたいと思うならば、インプットを大切にするべきです。
大槻ケンヂも、「たくさんも見たから書けた」と言ってますね。
基本的に、人は自分の中にある以上のものを外に出すことができません。材料がなければ料理できないのと同じです。この世界では質量保存の法則が働いていますから、謎の力が覚醒する、なんてことは、フィクションの中だけです。
運動のパフォーマンスを上げるために筋トレをするのと同じで、物語るためにはインプットが必要なのです。
他作品からの影響が怖い?
他作品に触れることで、「自身のオリジナリティがなくなってしまう」ことを憂慮される方もいるかもしれません。
簡単に答えを言えば、「その心配は不要」です。
小林秀雄は「一流作品の影響を恐れるな」と言ってます。
また、手塚治虫の『ファウスト』など、ほとんどそのまま、オマージュとして作品にしてしまっている。それをさらに改変した『ネオ・ファウスト』は、インプットしたものの変形の例として優秀です。未完なのが残念で仕方ない。自己流に変換さえなされていれば、それは立派にオリジナルな作品です。
他にも、芥川龍之介が『今昔物語』や『宇治拾遺物語』の作品から題材をとってきているのは有名な話です。そこにオリジナリティは、ないのでしょうか。愚問ですね。
古来、作品は他作品からの影響から生まれているのです。
結局、オリジナリティとは「自分の味付け」であり、うまく変換することできれば、いくらでもオリジナリティは生まれます。変換が足りず、ほぼ同じになってしまうと、パクリと言われます。しかし、パクリとオマージュ、そしてオリジナリティの境界線は、実は曖昧なものです。
キャラクターなどを自分流に変換する方法は、大塚英二の『キャラクター小説の作り方』や『キャラクターメーカー』に詳しいことが書いてます。
また、ヤングの『アイデアのつくりかた』にもあるように、優れたアイデアは既存のものの組み合わせから生まれます。経験のないところからは、なにも生まれません。
恐れることなく、どん欲に吸収しましょう。
インプットの方法
手塚治虫は膨大な作品数を誇りますが、それと同じくらい、たくさんの作品を見ていたのは間違いないです。書く以上に見ていたということですね。それは、作品自体からも、作者のエッセイなどからも伺い知れます。エッセイを見ても、作品に対し、しっかり分析していることが分かります。
『虐殺器官』などの著者である伊藤計劃も、映画に対し鋭い批評をしています(本人は批評ではないと言っているが)。
つまり、優れた作家は、優れた審美眼をもって作品を見ているのです。
では、具体的にどうすればいいのか?
それは、尾崎将也『3年でプロになれる脚本術』に詳しく書いてあります。インプットは、この本に載っている方法を実践していけば良いと思います。タイトルは怪しいですけど、書いていることは至極真っ当です。筆者は『結婚できない男』を脚本した方で、信頼できると思います。『結婚できない男』は、日本のドラマでトップ級の作品ですからね。恐縮して拝読すべき。
本書は、アウトプットの前にはインプットが重要だと説き、それは客観視するためだと言います。客観的な目線とは、「どうすれば面白いのか?」という視点です。初心者の多くがこの視点に欠けており、そのため、他人が読むと面白くないものになるのだ、と言います。
だから、インプットするうえで意識するべきは、「こうだから面白いのか」と分析しながら見ることです。どうすれば面白くなるのか。そのテクニック、ノウハウを見つけ、吸収するのです。
セリフ、キャラクター、ストーリー、構成、小道具などの、「個別の面白さ」はもちろん、「全体の流れ」も分析する必要があります。
そうして、「魅せる技術」を蓄えること。それがインプットするということです。
バットをやみくもに振るよりも、研究し、正しい振り方を身に付けるべきなのと似ています。
例えば、死亡フラグは、有名になりすぎた「魅せる方法」として紹介されています。「これさえ乗り切れば幸福になれる」人が、死んでしまうところに、ドラマが生まれる。言ってしまえば「上げて落とす」というテクニックです。これが多用された結果、「死亡フラグ」という名前がついてしまったわけです。
「死亡フラグ」ほど有名ではない、意識化されていないテクニック・ノウハウを、見つけ、身に付けるのです。
「物語全体の流れ」を分析するためには、ハコ書きが有効だとされています。こちらの雑誌では、逆プロットと紹介されているものです。この公募ガイドでは、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」が逆プロット化されていて、分かりやすいです。私はこれを参考にして、他の映画記事で逆プロットに挑戦しています。これがなかなか難しい。
「魅せる技術」の一部をまとめたものとして、髙崎卓馬『表現の技術』が挙げられます。この本のように、魅せ方を結晶化し、自分のものにしていくというのが、インプットに必要な事柄ですから、参考になります。最近文庫化したので、手に取りやすいです。
一流の作品から吸収する
先に引用した小林秀雄の助言にもあるように、インプットするなら、「一流の作品から」にするべきです。
「なぜその作品が面白いのか」を分析するわけですから、「面白い作品」を見ないと意味がありません。もちろん、良い作品が分かれば、「なぜ面白くないのか」も分かるようになるでしょう。
「3年でプロになれる脚本術」でも、洋画、邦画に分けて、観るべき映画を挙げてくれています。
私は、死ぬまでに観たい映画1001本を全部観るという目標を(一応)掲げていますが、正直そこまでする必要はないと思います。その時代でしか面白くない作品も載ってるでしょうし。目標はあくまで目標である。
まとめ
・優れた作品は、優れたインプットから生まれる
・他作品を見ても、オリジナリティは失われない
・インプットは「なぜ面白いか」を意識して行う
・インプットは一流の作品から
ちなみに、以上のようなことを継続して行うために、本ブログは立ち上げられました。映画の記事は、基本的に「面白さの分析」を行ったものです。
私の映画分析など、まだまだ足りないものだらけですが、継続こそ力であると信じて、続けていきたいと思います。