『キング・オブ・コメディ』の感想と考察|コメディの名を冠するホラー映画! 「社会のはみ出し者」だから狂人なのか?
気分が落ち込んだとき。
例えば、頑張って勉強してきた試験がダメだったとき。
傷つけられた自尊心。
今までの苦労が水泡に帰したという喪失感。
これからどうすればいいのか分からなくなる閉塞感。
そんなときは、一度コメディでも見て笑って、気持ちを切り替えて、再スタートするのがいいだろう。
そういうときにこそ、『キング・オブ・コメディ』という映画は最適……ではない。
むしろ、傷はさらに深くなり、未来への想像が胸を締めつけるだろう。
『キング・オブ・コメディ』とは、そういう映画だ。
これから本作のストーリーを追いながら、その魅力と、提起された問題について考察していく。
当然、ネタバレを含みますので、ご注意ください。
社会からの疎外感を感じているときは、あまり見ないほうがいいかもしれません。
ストーリー
序:無名コメディアン、パプキンの押しかけ
コメディ界のスターであるジェリー・ラングフォードを出待ちしているファンたち。
その中に、本作の主人公、ルパート・パプキンもいた。
もみくちゃにされながら、なんとか車に乗り込むジェリーだったが、車の中にはファンの女が潜んでいて、抱き着かれてしまう。
パプキンは、車に潜んでいた危険な女を、ジェリーから引き離した。
その見返りにパプキンは、自分を番組に出してくれるようにジェリーに要求する。
ジェリーは、自分の事務所に連絡するように言った。
パプキンは喜び、今度ランチでも食べようと言いながら、ジェリーと別れる。
場面が変わり、パプキンとジェリーがランチをしている。
パプキンの成功を、ジェリーがねぎらっている。
さらに、ジェリーはパプキンに、自分の番組の代役を懇願する。
しかし、ランチを食べながら代役を頼まれるという場面は、パプキンの妄想であった。
本作は、才能ある主人公が成り上がる、という話ではない。
破:パプキンの異常な営業活動
パプキンは、思い人である女性リタに対し、自分のサインを渡す。早くも、自分はスターになったと思いこんでいる。
リタに対し、「自分を低く見てはいけない、君はすばらしい」と言うパプキン。
セリフだけ見ればいいこと言っているのに、パプキン自身、全く評価されていないということを考えれば、滑稽である。
しかし、ただ滑稽なだけではない。全編を通してみたとき、このセリフは哀愁を帯びる。
さっそくジェリーの事務所に連絡をとるパプキンだったが、アポイントはないと言われる。
ジェリーが「連絡して来い」と言ったのはもちろん、ただの方便、嘘であった。
追い出す口実として、「テープに自分の芸を録音して持ってくれば審査する」と言われたパプキン。
外に出ると、ジェリーの車に潜んでいた女マーシャがいた。
実はこのふたり、最初から組んでいたのだった。お互いに、ジェリーとの関係を作りたい、という願望があったがゆえの共謀であった。マーシャはジェリーのストーカーである。
家に帰ったパプキンは、大勢の客が笑っている「写真」の前で、「笑い声」と「喝采」を聞きながら、一人芸を録音する。
その異様さは、視聴者に恐怖を与えることだろう。
パプキンという男は、明らかに異常だった。
繰り返す妄想と現実のサイクル。
妄想の中では、ジェリーに褒めちぎられる。次のスターは君だ、と絶賛される。
現実では、ジェリーの事務所に行っても相手にされない。名前すら覚えてもらえない。
いつまで経ってもジェリーに会えないので、パプキンは、ジェリーの別荘に招かれてもないのに訪れる。
そこで、パプキンはジェリーに手痛く追い出された。
ついに、パプキンは現実を突きつけられてしまった。
見ていられないのが、招待されたと嘘をつかれて付いてきたリタである。
楽しく踊ったりしていたのに、どうやら招かれていないということに気づくリタ。パプキンの妄想世界に踊らされ、恥をかいてしまう。恐怖である。
急:誘拐と脅迫
パプキンは、ついに最終手段をとった。ストーカーの女マーシャと共に、ジェリーを誘拐したのだ。
ジェリーの命と引き換えに、番組出演を約束させる。交渉が成立し、テレビ局へと出向く。
FBIがテレビ局で待ち構えていても、パプキンは動じない。
収録が終わると、リタの働く酒場で、その放送を見る。
パプキンのトークの内容は、自分の半生を面白おかしくしたものだった。
パプキンは、父親に相手にされなかったという悲しき過去を持っていた。
「どん底で終わるより、一夜の王でありたい」と、彼は言った。
その後、逮捕されたパプキンだったが、衝撃のデビューが脚光を浴び、獄中で書いた本がバカ売れ。
仮釈放を経て、喝采の中、パプキンはテレビに出演する。
それが果たして現実か妄想かは、分からない。
考察
1 パプキンという男
パプキンは、コメディアンになって世に認められるためなら、手段を選ばない。
なにがそこまで彼を掻き立てるのか。
それは、絶対にあると信じて疑わない、自分の才能だ。
リタに言った「自分を低く見てはいけない、君はすばらしい」というセリフは、自身にも言い聞かせていることでもあっただろう。
自己暗示が強すぎて、もはや暗示であることも忘れているという状態である。
手段は確かに間違っている。
しかし、その情熱と信念を否定することは、誰にもできないはずである。
さらに、彼が語った番組内でのトークは、彼の偽らざる半生である、と判断できる。
父に無視されながらも、なんとか生きてきたという事実だ。
そこに、同情の余地が生ずる。
彼は、自分の信じる才能を正しく生かすために、努力していたにすぎない。
その方法は間違っていた。だが、それはおそらく彼の出生に原因がある。
彼は、親から十分な教育と愛情を受けることができなかったために、手段を誤ったのだ。
同様のことは、パプキンの共犯者であるマーシャにも言える。
彼女もまた、愛を知らずに育った人物だ。
だからこそ、パプキンは名声を、マーシャはジェリーからの愛を求める。
彼らは加害者でもあり、被害者でもあると言える。
これは、現代社会においても、依然として同様の問題があるといえるのではないか。
社会に認められない者は、どこへ行けばいいのか?
そうした人間の根底にある問題が、物語としての「深み」を作っている。
2 物語の構成について
本作は、パプキンが世に認められる(犯罪者として、ではあるが)というところで終了する。
しかし、それは本当に現実だろうか?
本作は、物語の構成、展開として、現実と、パプキンの妄想を繰り返している。
そして、パプキンの成功は、すべて妄想として処理されてきた。
今までの法則からすれば、最後の成功もまた、妄想だと考えられる。
彼の番組出演シーンの長回しでは、観客の笑い声が、過剰なくらい起こっている。
しかし、それはパプキンの芸が世間に認められたこととは関係がない。
笑い声を挿入することでなんとか番組として成立させようとする製作者の意図であって、実際にパプキンの芸がおもしろかったかどうかとは別の話になる。
もしくは、あの笑い声自体も、パプキンの妄想であるかもしれない。
さらに、逮捕したFBI捜査官がパプキンに対し、「あの脚本はひどい」と酷評している。これが民主的意見の代弁であるとすれば、パプキンが、コメディアンとして認められたとは考えにくい。
以上を踏まえれば、最後の成功体験はパプキンの妄想であると判断できる。
では、成功体験が現実だとすればどうか。
パプキンの芸の程度はともかく、センセーショナルな登場であったのは間違いない。
犯罪者が獄中で本を出し、それがヒットするというシーンを見て、私は酒鬼薔薇聖人の事件を想起した。
犯罪者だろうが、世間の興味を引くことができれば、売れるのだ。
それを鑑みれば、パプキンの芸がいくらお粗末だろうが、成功したという現実があってもおかしくはないと思われる。
もちろん、パプキンの芸そのものによって売れたことも完全に否定はできない。
このように、エンディングで「実際はどうなのか」を分からなくし、考察の余地を残すことで、物語は深みを増す。
本作から学ぶべき教訓
・単なる異常者として描くのではなく、背景を持たせること。それにより、キャラクターに奥行きが生まれる。
・作品のラストを曖昧にすることで考察の余地がうまれ、作品に深みが増す。
『キング・オブ・コメディ』という見事なタイトル詐欺にひっかかってしまった私は、傷ついた心をさらにえぐられたわけですが、その分パプキンへの共感が深くなり、より作品を楽しめたのかな、と思っています。
「社会から認められていないという感覚」は、現代において「死に至る病」であり、人を狂わせるのです。