創作のための映画と読書まとめ

当ブログは「良き創作は良き鑑賞から」をモットーに、鑑賞した映画と本についてまとめておく目的で設立されました。同志よ集え!

すっぱいブドウの処世術 ~なぜ言い訳をしたらダメなのか~

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「すっぱいブドウ」というイソップの寓話があります。キツネが手に入れられなかったブドウについて、「どうせあのブドウはすっぱいだろう」と、負け惜しみを言って終わるお話です。

 

フロイトの心理学的には防衛機制、合理化の例として挙げられています。どうしても手に入りそうにないものを、「自分には必要がないもの」とみなすことで、心の平穏を得ることです。

 

実際、叶えたかった願いが、どうしても叶わないとなれば、キツネのようになんとか理由をつけて、「そんなもん、いらんわい」と、合理化し、折り合いをつける他ないでしょう。

 

例えば、就職活動。山ほど面接して、山ほど断られる。断られるたびに精神が摩耗していく。本命からのお祈りメールが来たなら、その日は一日中、ブルーの海に沈んで、浮かんでこれないでしょう。

 

そんなとき、自らの心を守るためには、合理化するしかないのです。「あの会社、タバコ臭かったし」「面接官も偉そうなやつばっかりで、どうせブラックだったわ」などなど。そうして、なんとか浮上する。

 

しかし、どれだけそれらしい理由を並べたところで、客観的にみればそれは「言い訳」にすぎません。それも「苦しい」という形容をつけてもいいようなものです。苦しい言い訳、まさしくその通り。なぜなら、その断られてしまった会社に行きたかったのは、消しようのない事実なのだから。

 

なにかと「言い訳」に厳しい世の中です。「言い訳」という言葉が伴う文章で使用率ナンバーワンを決めれば、断トツで「言い訳するな」になってしまうでしょう。子供のころからの教育で、言い訳はしてはいけないもの、と教え込まれている。

 

言い訳は、「自分は悪くない」というための論法である、と思われているのでしょう。遅刻した際の「電車が遅れたんです」という言い訳は、「遅れた電車が悪いのであって、自分は悪くない」という意味に受け取られ、「じゃあもっと早く家を出ろ」と怒られる。別に自分が悪くないと言いたいわけではなくて、ただ「理由」をいっただけでも、それは「言い訳」になってしまう。これは、ただ遅れてきた人間を怒りたいだけなのではなかろうか。

 

それとも、武士道のように、「潔さ」が貴ばれるので、言い訳している様が醜く見えるから、怒っているのだろうか。ウジウジとした感じに対して、怒りたくなるのではないか。こちらの理由の方が、私としてはしっくりきます。はっきりしない様はなぜか、人をいらいらさせるのです。

 

そうだとすれば、我々はその価値観を見直すべきでしょう。人間は完ぺきではありません。むしろ、不完全さこそが、人間らしさと言えるのではないか。完全も理想も、目指す先にあるものでしかありません。

 

すっぱいブドウのキツネに対しても、滑稽や嘲りを向ける人が多いかと思います。「残念、取れなかった」で黙って潔く去ればいいのに、捨て台詞をわざわざ吐く。それを見た読者は、「キツネ、かっこ悪い」と思うわけです。

 

まして、これは寓話ですから、「言い訳ははカッコ悪い」という戒めが、子供たちに対し強化されるのです。これは、敗者に対する追い打ちを増長させ、去る背には石を投げてもよい、という風潮を作る一端になってはいないでしょうか。

 

みっともない言い訳にしか見えないかもしません。しかし、不可能を前にした敗者は、なんとかそのショックを和らげようとしているのです。精いっぱい、現実との折り合いをつけようとしているのです。それを馬鹿にし、挙句の果てに笑いものにしてしまうのは、それこそ醜い。

 

すっぱいブドウで描かれる合理化は、立派な処世術であるから、恥だとは思わず活用すればいい。それを見た人たちは、内心どう思おうが勝手ではあるが、それを表に出さないようにする。「人の不幸は蜜の味」というように、どうしても面白がってしまうのが人の性かもしれない。ただ、それを苦しむ本人の前で言わないようにする。人の不完全さを指摘することほど、簡単で残酷なことはないのですから。

 

ちなみに、就職活動の例は実際にあった私の話で、友達に話したら高笑いされました。キレそうでした。